たまたま大丸の三省堂書店に、佐藤優と並んで本書が平積みされていたのが目に止まった。堤未果は岩波新書の「貧困大国アメリカ」シリーズを面白く、と言うか、空恐ろしく読んだ。本書でも主たる対象はアメリカなのだが、一国というよりも、その背後にあるグローバリズムを推し進める「1%」陣営を意識した記述となっている。
「財界の思惑に押された政府やマスコミ、自由貿易推進者たちは、数十年前からずっと同じことを言って国民を欺いてきました。海外から安い製品が山のように入ってくる、支払額が減って皆ハッピーだろう?と。ですが彼らは、その安価が連れてくるもうひとつのコスト、この国の経済を根底から破壊するもうひとつの高いコストについては決して言及しないのです。(P78)」 その「高いコスト」とは、分かりやすく言えば「国内産業の空洞化」だ。円高の時に流行したこの言葉、最近ではめっきり耳にする機会が減ったが、それはもう空洞化がかなり進行してしまったからなのかも知れない。札幌の狸小路ではシャッターが降りたままの店が増えていっている。昔からあった古参の本屋が店じまいをする。これは随分と地域の卑近な例ではあるけれども、通底しているものは同根だろう。「便利だから」「安いから」というだけで近所のお店や産業が倒れていってもいいのか。ちなみに、ある友人は、「それはもう仕方ないよ、もう止められないもん」と即答した。だが、「
ブタとおっちゃん」を読んだ時にも感じた時のように、そこを自分たちの選択で変えていけないのだろうか。それは例えば、可能なかぎり、amazonでなくて紀ノ国屋で買う、あるいは札幌なら玉光堂で買う。吉野家で300円で済む昼食を、定食屋の680円のものにする、というような感じで。これは「
はじめてのマルクス」で佐藤優が「経済合理性に反する行為をあえてする」と言っていたのと通じる。
カダフィ時代のリビアでは国民は電気料金の請求書など見たことがなく、アフリカで最も高い生活水準を誇っていた。にも関わらず西側メディアは歪んだカダフィの独裁政権像だけを流す。
「カダフィが残した功績は、あなた方が西側メディアから見聞きしたような、国民の犠牲の上に立つ専制君主国家ができることではありません。もちろん、他の国と同じように全く問題がないわけではなかったでしょう。ですが、外国の軍が上空から2万回もの爆撃を行うような軍事行動が、正当化されるような事態は一切なかった。リビアは、どんな行動も騒乱に結びつくことのない、珍しい国でした(P116)」というインタビューも掲載されている。ただし、この相手はリビア人ではないが。
アルジャジーラもリビア報道については同じ歩調で、カダフィを追い込んだ。アルジャジーラに対しては、何となく信頼できるというイメージを持っていたけど、これも幻想だったらしい。「アルジャジーラの代表であるワダー・カンファー氏は、告発サイト『ウィキリークス』にかかってCIAの部下だったことを暴露されて辞任しています」
そして、アルジャジーラまでもが結託してカダフィを標的にした理由はフセインの時と酷似している。「リビアは144トンもの金を保有していました。カダフィはその金を原資に、ドルやユーロに対抗するアフリカとアラブの統一通貨・ディナの発行を計画していたのです。そこにはIMFや世界銀行の介入から自由になる<アフリカ通貨基金>と<アフリカ中央銀行>の創設も含まれていました。(P122)」
政府やメディアからの情報は信用できない可能性が高いという前提で受け止め、「多角的に集めて比較し、過去を紐解き、自分自身で結論を出すこと(P212)」。これは押井守が「
コミュニケーションは要らない」で最後の結論部で主張していることと同じだ。「ひとまず信じない」で判断を保留する。
また、「政府」と言っても、その背後に誰がいるのか(陰謀論ではなく、圧力団体なりロビー活動を展開している組織は普通にいる)ということまで考えないと、なかなか自分なりの本当の結論に辿りつけないだろう。
ヤン・ウェンリーが言った通り、民主主義とは面倒くさい。でも、その面倒くささが存在できていること自体が、民主主義の価値の一つだろう。