2013年6月16日日曜日

橋本龍太郎外交回顧録 五百旗頭 真 (編集), 宮城 大蔵 (編集)

【要約】
・ポマードな首相という印象しかないのだが、まぁ、なかなかに武闘派で、しかも率直な人だったらしい。当時の状況をズバッと本音っぽく語っているのがなかなかに面白い。所詮、政治家が自分の過去を振り返って語っているのだからというフィルターが自分の中にないではないが、そればっかりではあまりにも世知辛い。

【ノート】
・「(法制度上の準備ができていないときは、結局そういう「超法規的」と称する違法行為をやるしか)仕方がないのですね。(P59)」

・「公邸にいるときに当時の田中均外務省北米局審議官が「県内移設が前提だったら、返すという可能性があるかもしれません。ただ、事前に出せません。押してみていいですか。どうしましょうか」、と。「押してくれ」と、すぐ私は答えたのですが、そのときに「ああ、やっぱり同じことを考えてくれたな」と、ものすごくホッとした記憶があります。(P70)」

・「橋本:中国を牽制するためにロシアをアジアのプレーヤーのなかに入らせるということを本気になって考えていました。(P81)」

・「何だかんだと言われていますが、実はスハルトはジャカルタに入ったときに買った家にずっと住んでいたわけです。想像するよりは慎ましいと思います。一般庶民から見れば非常に贅沢だということになりますが、あの国の贅沢というなかには入らない家でした。彼がいかにプライドを傷つけられたか(P93)」

・「インタビュアー:マルチにおいて、どういうところがポイントなのでしょうか。
橋本:最大公約数をみつける能力でしょうか(P97)」

・「とにかくわれわれはここで日米交渉を決裂させちまえと。ただし、どんなことがあっても先に席を蹴って帰るのはアメリカにしようと。そして帰るやつに「まだ話そう、話そう」と言って、それを振り切ってアメリカが席を立ったら、立った瞬間に世界中に手分けしてその状況の説明に回れ、というのを手ぐすね引いておりましたので、これは非常にその通りにいきました。(P124)」

 こんな感じで、考えてシナリオを練った上で、タフな交渉に臨んでるんなら、それが裏目に出ても責めることはできないわね。

・「湾岸危機から湾岸戦争のときに、まったくそういう設備(オペレーションルーム)がありませんで、官邸の小食堂と大食堂の間の「喫煙室」といわれる部分に機器を入れ、大食堂を仮睡の場所にして使ったのが最初です。これが反省で、「オペレーションルーム」と称するものを作ったのです。言いたくないないのですが、いまの官邸の主、官房長官はまったく使い方を分かっておられないですね。(P131)」

・ペルー大使館の占拠事件についての口述もまた、なかなかに生々しい。「救出作戦自体は、フジモリがいばったようなものではなくて、計画はずいぶん失敗しています。そしてそれは私自身、あとでお礼に行きましたときに公邸のなかに入って、それまで言われていた『誰がここで死んだ』という記憶と当てはめてみましたところ、やはり違いました。階段の途中でセルパは殺されたというのですが、なるほど階段の途中には血痕はありますが、人一人死んだ血痕ではありません。SPに同じことを『きみ、どう思う?』と聞くと、彼らはさすがにプロで、『弾痕がありません』と言いました。(P140)」

・「ややもするとわれわれは中国共産党の首脳部と中国政府の首脳部を考えるのですが、人民解放軍の影響力を見落としてはいけないということです。(P146)」

・「日本は安全保障という点で、私はこれからも出すぎる能力を持つ国ではないと思いますし、また持てないだろうと思います。これもあまり表にバレずに済んで、私は幸せに辞められたのですが、例えばソ連海軍と海上自衛隊は、私が辞める前日から最初の共同訓練をスタートさせました。オーストラリア海軍と共同訓練をやりました。これもやって、全然バレずに済んで、私は非常に幸いなのです。インド海軍と日本の海自の共同行動、共同訓練を視野に入れてアプローチをしてきていますし、その切り口は海賊対策です。(P157)」

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